■オーダーメードの就業規則で 「職場の一体感」を生みだす

社会保険労務士の活動では、その会社の社風や企業風土に合わせたオーダーメードの就業規則づくりに力を入れていますね。「就業規則に社風を反映させる」というのは実際には難しそうですが、あえて、その方向で仕事をしようとするのはなぜですか。

下川原
ひとことで言えば、社労士として「だれもが働きやすい環境づくり」をサポートしていきたいからです。いろいろな会社を拝見してきた経験で、これははっきり言えることですが、人は決してお金だけのために働きません。会社から「給料をこんなに出すからやってね」と言われるだけでは、働く人のモチベーションが続かないんですね。 働く人たちにとって、お金よりも大事なこと――それは何かというと、「認められる」ことだと思うのです。「あなたがこれをやってくれるおかげで、わたしは気持ちよく働けます」という雰囲気が職場にある会社はどんどん伸びていくんです。逆に、「高い給料出しているんだから、文句言うな」みたいな会社は、短期的には好業績があっても、長期的には必ず行き詰まっていくものです。だから、ご縁あって就業規則などをわたしがやらせていただく会社さんには、「社員どうしがお互いを認め合う雰囲気」や「この仕事をやってきて良かったと思える職場環境」を、ぜひつくってほしいんですね。

でも、現状では、そこまで意識して就業規則をつくっている会社は、少ないような気がしますが。

下川原
ええ。就業規則や諸規程をつくるだけで満足して、それを職場の環境づくりにまで生かしていない会社が多いと思いますね。いったんつくったら、内容だってほとんど読まれない。

就業規則は、形式さえ整っていれば十分ではないですか。

下川原
それは誤解ですよね。就業規則というのは、職場の環境づくりから会社全体の発展へとつなげていく土台となるものです。そこで働く人みんなのルールであると同時に、みんなの気持ちを一つにしていくツールでもある。だからわたしは、就業規則をつくったら必ず、「説明会を開いて、社員のみなさんと内容を共有しましょう」と会社に提案しています。実際、そういう説明会をやると、社員の方々の意識が変わってくるのがわかります。就業規則の内容を共に理解していくことによって、会社と社員の間の意思疎通が進み、「職場の一体感」も生まれてくるんです。人を大事にする会社にはトラブルや紛争が少ない。

確かに、そういう説明会があると、経営トップと一般社員との関係も、単に「雇う・雇われる」というものから、「同じ目的に向かって一緒に働く仲間」というように変わっていくような気がします。

下川原
まさにその通りですよ。目指す方向がわからずに働くのって、だれだって不安でしょう。わたしはそれをもう一歩進めて、「です・ます調」で就業規則をつくりましょうと、会社の経営者のみなさんに提案しています。一般的な就業規則って、上から目線で、「○○してはならない」とか、会社が社員にルールを強制するような言葉遣いで書かれていますよね。でもそれって、社員の心を閉ざさせるだけだと思うんですね。「ウチはこういうルールでやっているから」と、どこか高圧的な就業規則になっていると、わたしだったら「この会社で一生懸命働こう」という気持ちになりません。 そうではなくて、「○○しましょう」という「です・ます調」で、経営者も一般の社員もみんな同じ立場だという目線で就業規則が書かれていたら、なんとなくうれしくなりませんか。「そうだ、ここがわたしの会社なんだ!」なんて、やる気になりますよね。使い古された言葉ですけど、やっぱり会社は「人」なんです。働く人のやる気を大事にする会社は、着実に発展していきますよ。

なるほど。でも一方で、就業規則には、会社自体を守っていくという側面があると思います。あえてきつい文言で、禁止事項をはっきり明言しておくことも必要なのでは?

下川原
もちろん、「です・ます調」の書き方であっても、禁止事項はしっかり盛り込みます。最近は労使間のトラブル・紛争が増えていますから、想定されるトラブルを事前に検証して、その会社の事情に合わせた紛争予防型の就業規則をつくっていくことも大事です。厚生労働省の統計では、2007年度の個別労働紛争は、相談を含めると約100万件にもなっていますからね。 ただし、そういう会社防衛の発想をもとに就業規則をつくると、結局、あれはダメ、それは困ると、どんどん規制だらけの息苦しいものになりがちです。それで会社を守ることはできるけれど、働く人たちの意欲を失わせ、将来の発展を阻害しかねない。むしろ発想の基本を「みんな仲間だ」というところに置いて会社運営をしていくと、日常的なコミュニケーションが生まれやすくなりますから、職場での不満とか問題も小さなときに解決できるようになるんですよ。裁判にまで発展するようなトラブルだって、最初は本当に小さなこと。それが幾つも重なって、取り返しがつかなくなる。だから、「禁止事項をまとめて書く」という就業規則に対する認識を、「みんなが働きやすいルールをつくる」というふうに、変えていってほしいんです。

「です・ます調」の就業規則を提案しても、それを拒否する経営者はいませんか。

下川原
これまで「です・ます調」にしましょうと提案して、断った経営者の方は一人もいません。みなさん、働く社員さんにちゃんと敬意を払っていらっしゃいます。働く人がいなければ事業が回らないと分かっている経営者の方々はいつも言葉遣いが丁寧ですし、わたしの意見にも深くうなずいてくださいますね。

具体的には、どのような就業規則をつくっていますか。

下川原
印象的な事例という意味で、ある左官業の会社さんの就業規則を少し、ご紹介します。 ご夫婦でずっと続けていらっしゃる会社ですが、経営を息子さんに任せていくにあたって、新たに就業規則をつくり、会社の体制をしっかりしておきたい、ということでした。これからは若い人を積極的に採用し、育てていきたい、とのお考えだったんですね。法律的な話をすると、従業員10人未満の会社は就業規則をつくらなくてもかまわないので、その会社さんも必要はなかったのですが、それでも環境づくりをしておきたいと。 ご相談を重ねながら、けっこう思い切った就業規則をつくりました。「社員服務心得」というタイトルをつけて、働き方の約束事というか、ルールブックのような感じにまとめたんです。たとえば、第一条の<目的>では、「私たちは仕事を通じて、一人でも多くのお客様を喜ばせ、社会に貢献し、合わせて私たちの夢と物心両面の安定と満足を実現していくことを目的とします」と定めています。「夢」という言葉が第一条に出てくる就業規則って、素敵じゃないですか。会社にそういう目的があることを社員に伝えるだけでも、ずいぶん環境づくりへの効果があるのではないかと思いますね。

 

■インドネシアの研修・実習生たちと 接するうちに芽生えた職業意識

お話をうかがっていると、「働く人たちを大事にしたい」という気持ちが伝わってきます。社会保険労務士というと、経営者寄りの立場でものを考えることが多いのではと思っていましたが、下川原さんは、少し違うような気がします。

下川原
そうですか。それはわたしがこれまで体験したことの影響があるのかもしれませんね。社労士の仕事をするうえでは、あまり労働者にばかり近づいてもいけないので、そこは気をつけていますが、意識としては、経営者だけでなく労働者のことも大事に考えるようにしています。経営者寄りの視線だけではわからないものがある。労働者の立場も理解できてはじめて、経営者にとって最良の雇用形態がどういうものかってことが見えてくるんじゃないかと思うんです。要は、「その会社と丸ごとかかわる」ということが重要なんですね。これは、労働者が外国人の場合には、より一層強く求められることだと思います。外国人労働者の場合には、文化、習慣といった背景の違いからくる固有の問題があるんです。日本人とは労働意識が異なる場合もあるわけで、そういった違いをちゃんと頭に入れておかなければならない。その違いを踏まえた「働きやすい環境づくり」が、ひいては経営者の利益につながるわけですから。

下川原さんの経歴はとてもユニークですね。スーパーマーケットで社会人生活をスタートし、転職後は、中小企業国際人材育成事業団でインドネシアに5年2カ月も駐在。そして、帰国後に資格取得し、2005年10月に独立開業。得意分野も外国人雇用コンサルティングとのことで、さきほどのオーダーメードの就業規則と同様に、特徴があります。

下川原
いろいろ経験した、とポジティブにもとらえられますけど、要するに、自分が定まっていなかったんですよ、お恥ずかしい話ですが。何をやっても自信がなくてね。スーパーマーケットへの就職も、「食べることが好きだから、自分に合っているんじゃないか」なんて気楽に選んでしまったんです。入社後は、立ち上がったばかりの通信販売部門とか、花形部署だった企画室に配属されて毎日夢中で働いていました。ただ、なぜか「自分が本当にやりたいことをやっている」という感覚は持てなかったんですよ。 社労士としてのいまの自分にとっては、このときの職務経験が、労使関係を考える上で役に立っているということはあるんですけどね。「やりたいことをやっている」という感覚がないから、自分のやっていることに自信も持てなかった。そこで、思ったんです。「流されるんじゃなくて、自分のやりたいことをしっかりやろう」「自信をつけるためにも資格を取ろう」と。

しかし資格取得の前に、転職を経験していますね。

下川原
何の資格がいいかなあと、いろいろ検討しているときに、新聞広告で発足したばかりの中小企業国際人材育成事業団が公募しているのを知ったんです。興味を持ち始めていた社会保険労務士の仕事に関係ありそうだし、組織をこれからつくりあげていくのも楽しそうに思えたんですね。実際、ここの職場は自分にとても合っていました。

環境がよかったのですか。

下川原
仲間とは気が合いました。それに、いま振り返ると、若い人たちを応援するという仕事に、すごくやりがいを感じていたのだと思います。 仕事内容は、インドネシア人を対象に現地で職業訓練をし、その後、日本の中小企業に派遣するという事業だったんですけど、日本に来るインドネシア人って、たいてい20代前半なんです。ただでさえ悩みの多い年ごろじゃないですか。まして、異国の慣れない環境に身を置くわけですから、いろいろ不満や寂しさを抱えて悩むケースもあるわけです。そういう彼らと接していると、わたし自身も、仕事が苦しくて悶々と20代を過ごした経験がありましたから、なんとか乗り越えてほしいと願わずにいられなくなる。そんな思いがわたしの中で、だんだん積み重なっていったのでしょうね。「よし、社労士の資格を取り、もっと自由に動ける立場で、会社の「働きやすい環境づくり」の手伝いをしていこう」って思うようになったんです。 外国人雇用とは何か? ということも青年の事故死から根源的に考え始めました。

中小企業国際人材育成事業団の職員として、インドネシアに駐在したときは、どんな生活でしたか。

下川原
駐在前からインドネシア語を学び始めていて、独身だったし、「お前行けるだろ?」みたいな感じで駐在員に選ばれたんです。行ったら、普通の民家の一室をあてがわれて、大企業の海外駐在員のような生活とは、まったく無縁でしたね。それで、駐在3日目にして激しい下痢をしたんですよ。もう体の中の全部が出切ったんじゃないかと思うほどひどかったんですが、それ以降は、体質が変わったのか、現地の水を飲んでも何しても大丈夫になりました。慣れるとすごく居心地のいいところで、最初の予定では2年の駐在だったのが、結局5年に延びました。

それだけ馴染んだなら、いろいろな人とも出会ったことでしょうね。

下川原
仕事に関することだけでいえば、日本に働きに行くインドネシア人と1000人くらいはかかわったと思います。印象でいうと、その8割は日本に行って大満足、2割くらいが不満やトラブルを抱えていたように思いますね。

やっぱり、トラブルもあるのですね。たとえば、どんなことがありましたか。

下川原
これは思い出すのも辛いことなんですけど……20代半ばの青年が、作業中の事故で亡くなるということがありました。2トンくらいの鉄を下げた移動式クレーンの作業中、間違ったボタンを押して、自分のほうにクレーンが動いてしまったんですね。それで、自分の後ろにあった壁との間に挟まれて、脾臓破裂で亡くなったんです。 このときわたしはすでに帰国していて、インドネシアからの人材を受け入れる側の仕事をしていたんですが、インドネシア語ができるということで、トラブルが起きるたびに、駆り出されていたんです。それで、その事故も担当することになったのですが、調べてみると、その青年はインドネシアから日本に来てまだ6カ月くらいだったんですね。言葉も不自由だったと思いますし、危険な仕事をこなせるだけの技術があったのか、わたしは疑問を持ちました。 その事故をきっかけに、いろいろ考えました。外国人研修制度のこともそうだし、もっと根源的に「外国人雇用って何だろう」「労働って、どうあるべきなの?」って。

青年はインドネシアから夢を持って来日したはずなのに……。

下川原
本当にそうです。ご遺体の搬送に、日本から3人――青年の会社の総務部長、事業団の上司、そしてわたしがインドネシアまで付き添いました。現地に到着して知ったのですが、その青年は、大家族の多いインドネシアでは珍しく、母一人・子一人という境遇だったんです。 青年の故郷はスラウェシ島のクンダリという小さな町で、その空港なんて、広い原野の中に、掘っ立て小屋のような建物があるだけのものでした。そこに、お母さまがいらして、ひつぎを前に、ずっと涙を流して……。わたしたちは、土下座しました。それで許されるわけではないですけど、青年は、母親をこの小さな島に一人残して日本に来たんです。大きな夢や希望がなければ、できないですよ。それがこんなことになるとは……。その小さな島の空港でのことを、わたしは今でもときどき思い出します。言葉の壁で意思疎通を怠ると外国人労働者は不信感を溜めることがある。

そのようなことが二度と起きないように、人を大事にする風土がどの会社にもあってほしいと願わずにいられません。

下川原
多くの会社はきちんとやっていると思いますが、ごく一部に、とくに外国人労働者を「安く使える人手」とみなしている会社があるのは事実です。そういう会社では、いろいろなトラブルが起こりやすい。精神を病んでしまったり、がんになって帰国させられたり、作業中の事故で右腕を失くしたり……。一時、わたしはインドネシア人の悩み相談を24時間体制で受けていたので、いくつもケースを見てきました。

悩みとしては、どんなケースが多かったですか。

下川原
よくあったのは、「給料が勝手に減らされた」という不満ですね。ですけど、調べてみると、社会保険や税の変更に伴う受け取り額の減少が原因ということも多かった。だから、べつに会社の悪意ではない。そういう「勘違い」は、よくありましたね。

でも、それは説明しない会社も悪いですよね。

下川原
いえ、そうとも言い切れないんですよ。外国人に説明したいという気持ちはあっても、「できない」というのが実情なんです。説明しようにも言葉が十分にできないし、ましてや、保険とか税の話は難しいでしょう。日本人にうまく伝えるのだって、簡単じゃないですよね。 だから、うやむやのままにしてしまう。そうすると外国人に不信感が生まれてくるんですね。さきほども言いましたけど、小さい不満や不信感が、ひいては大ごとになるんです。極端な例かもしれませんが、一つの会社で働いていたインドネシア人8人が、帽子のかぶり方を注意されたことをきっかけに、突然ボイコットして全員帰国したということがありました。それ以前から、彼らは会社に対して、かなり不満を持っていたのでしょう。でもそうなると会社のダメージも大きいですよね。代わりの労働力を急に確保するのは困難ですから。やっぱり、小さなことでも労使できちんと意思疎通しておくことが必要なんですね。

外国人雇用といっても、国籍、業種、規模などさまざまですが、下川原さんは豊富な経験がありますから、どんな問題でも、コンサルティングの対応ができそうですね。

下川原
ええ、難しい問題が多いですが、懐に入って対応する自信はあります。会社の規模が大きくて、外国人雇用も多いときには、チームを組んで対応する体制も整えていますし。実際、現在も、外資系企業の労務顧問の社会保険労務士から、在留資格の取得手続きを頼まれることが増えているんですよ。わたしは行政書士資格も持っていますから。また、自分の経験を生かせるという意味では、東南アジアの人たちを雇用する会社に対して、より具体的で有用なアドバイスをしていけると思います。最近は中国の方がいろいろな分野で活躍されているので、そういう方々がいる企業の労務顧問のニーズも高まっていますね。 それと、わたしはインドネシア語ができるので、インドネシアからの労働者を多く雇用している企業には、とくにお力になれると思っています。首都圏以外の会社からのご依頼もお引き受けしていますし、これまでお話ししてきたように、インドネシアとわたしの間には人生の方向を決める縁があったと感じていますので、外国人雇用のコンサルティングで、それは一つの専門として続けていきたいと思っています。